ご利益信仰と文化を訪ねて
誓法山金前寺は、天平8年(736年、奈良時代)45代聖武天皇の霊夢により勅を奉じた泰澄大師が十一面観音の坐像を本尊として寺を建て、天皇親筆による金光明経を賜り、その経を金櫃に封じて陵丘に埋めさせ給うた。それによりこの山を金ヶ崎(かねがさき)と名付け、寺名を金前寺と号した。尚、金前寺の所伝によれば金前というのは金光を発する十一面観音からその名が出たとも云われる。
弘仁2年(811年)弘法大師ご留錫(りゅうしゃく)あり。当山は気比神宮の奥の院として、伽藍十二坊を有し、本尊、袴掛観音(はかまかけかんのん)は縁結びの観音として霊験あらたかであった。この金前寺こそ、南北朝の延元に入るや、北国の鎮護として下向し給うた後醍醐天皇の皇子恒良親王及び尊良親王を迎え奉って、気比社の祠官気比氏治(けひうじはる)氏以下いくたの忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の士が足利の軍をひきうけて一大決戦の本営となったが、武運つたなく足利軍に破れた。(現在金ヶ崎宮の地)
以後、寛文2年(1662年)安孫子浄泉(あびこじょうせん)打宅宗貞(うたむねさだ)等が現在地に観音堂を再建し、鎮護国家・済世利人の祈願寺として法灯相続せしも、昭和20年7月12日夜、米国空軍による爆撃により堂宇(どうう)、寺宝の一切を焼失灰塵と化した。
現在の本尊十一面観音の立像は、当時金前寺の末寺であった気比蔵寺の本尊で、戦時中は美浜町の園林寺(おんりんじ)に疎開されており、幸にも空爆からまぬがれた。終戦直後昭和21年4月より本堂再建に着手しその年に本尊を迎えた。
その後は昭和27年、37年に本堂の修復増築工事。平成元年には現在の本堂、庫裡を再建する(高野山真言宗 誓法山 金前寺ホームページより)
弘仁2年(811年)弘法大師ご留錫(りゅうしゃく)あり。当山は気比神宮の奥の院として、伽藍十二坊を有し、本尊、袴掛観音(はかまかけかんのん)は縁結びの観音として霊験あらたかであった。この金前寺こそ、南北朝の延元に入るや、北国の鎮護として下向し給うた後醍醐天皇の皇子恒良親王及び尊良親王を迎え奉って、気比社の祠官気比氏治(けひうじはる)氏以下いくたの忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の士が足利の軍をひきうけて一大決戦の本営となったが、武運つたなく足利軍に破れた。(現在金ヶ崎宮の地)
以後、寛文2年(1662年)安孫子浄泉(あびこじょうせん)打宅宗貞(うたむねさだ)等が現在地に観音堂を再建し、鎮護国家・済世利人の祈願寺として法灯相続せしも、昭和20年7月12日夜、米国空軍による爆撃により堂宇(どうう)、寺宝の一切を焼失灰塵と化した。
現在の本尊十一面観音の立像は、当時金前寺の末寺であった気比蔵寺の本尊で、戦時中は美浜町の園林寺(おんりんじ)に疎開されており、幸にも空爆からまぬがれた。終戦直後昭和21年4月より本堂再建に着手しその年に本尊を迎えた。
その後は昭和27年、37年に本堂の修復増築工事。平成元年には現在の本堂、庫裡を再建する(高野山真言宗 誓法山 金前寺ホームページより)
縁結び十一面観音
金前寺には昭和20年(1945年)の敦賀空襲の時まで、縁結びで知られた十一面観音が本尊として祀られていました。人々から「袴掛観音」(はかまかけかんのん)と呼ばれたこの仏様は、古く「今昔物語集」(平安末期の説話集)などに由来が記されています。その話とは
昔、敦賀に一人娘とその父母が住んでいた。娘に何度か夫を迎えたが、いずれも離縁となった。両親はあきらめ、家の後ろに堂を建て観音を安置して、娘を守ってくださるようにと祈った。まもなく父も母も死に、次第に衣食にも窮するようになった。娘が観音に向かって助けたまえと願ううちに、夢の中に老いた僧が現れて「夫を見つけてやろう。明日ここに来る。その人の言う事に従え」と告げた。
翌日の夕方、馬の足音がして大勢の人がやって来た。一行は若狭へ向かう途中で、この家を宿として貸して欲しいという。見れば主人は30歳程の好男子である。従者など70人から80人ばかりいる。男は美濃の豪族の一人息子で、深く愛していた妻を亡くし、再婚話も断って一人身でいた。男は娘が話す様子など全てが、妻と生き写しであることに驚き喜んだ。
翌日、男たちは若狭へ向かい、従者20人ほどが敦賀に残ったが、これらの人に食べさせるものもなく困っていると、以前、父母に召し使われていた者の娘だと名乗る女が、思いがけなく訪ねてきた。わけを話すと、女はしばらくして食べ物や、馬の草を運んできた。
翌日の夕刻、若狭から一行が戻ると、その世話も全て女がしてくれた。男は、娘を明日美濃へ連れて帰るという。娘は助けてくれた女に何かお礼をと思い、ただ一着、紅の絹の袴があったので、自分は男が脱ぎ捨てた白い袴をはき、女に紅の袴を与えようとした。女は受け取ろうとしなかったが「思いがけず美濃に行く事になったから、これを形見に」と無理に取らせた。
出立のときに、観音にお参りすると、その肩に赤いものがかかっている。見ると前夜にあの女に与えた袴である。さては女と思ったのは観音が変じて助けて下さったのだと気づき、娘は身もだえして泣いた。男も事の次第を聞いて涙を流し、従者達もその話に胸をうたれた。その後、二人は美濃で仲むつまじく暮らし、子供が多く生まれた。敦賀にもしばしば通って観音の世話をし、手を尽くしてその女を捜したが、ついぞ見つからなかった。
(「今昔物語集」巻第十六から要約)関西電力㈱わかさ探訪より)
松尾芭蕉の句碑(鐘塚)
「南北朝時代、足利軍との戦いに敗れた新田義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海士に探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、竜頭が海底の泥に埋まって引き上げることが出来なかった。」芭蕉は、宿の主人からこの話を聞いて「月いつこ鐘は沈るいみのそこ」と詠んだとのことです。現在この句は金前寺の境内に立つ句碑(鐘塚)に刻まれています。
昔、敦賀に一人娘とその父母が住んでいた。娘に何度か夫を迎えたが、いずれも離縁となった。両親はあきらめ、家の後ろに堂を建て観音を安置して、娘を守ってくださるようにと祈った。まもなく父も母も死に、次第に衣食にも窮するようになった。娘が観音に向かって助けたまえと願ううちに、夢の中に老いた僧が現れて「夫を見つけてやろう。明日ここに来る。その人の言う事に従え」と告げた。
翌日の夕方、馬の足音がして大勢の人がやって来た。一行は若狭へ向かう途中で、この家を宿として貸して欲しいという。見れば主人は30歳程の好男子である。従者など70人から80人ばかりいる。男は美濃の豪族の一人息子で、深く愛していた妻を亡くし、再婚話も断って一人身でいた。男は娘が話す様子など全てが、妻と生き写しであることに驚き喜んだ。
翌日、男たちは若狭へ向かい、従者20人ほどが敦賀に残ったが、これらの人に食べさせるものもなく困っていると、以前、父母に召し使われていた者の娘だと名乗る女が、思いがけなく訪ねてきた。わけを話すと、女はしばらくして食べ物や、馬の草を運んできた。
翌日の夕刻、若狭から一行が戻ると、その世話も全て女がしてくれた。男は、娘を明日美濃へ連れて帰るという。娘は助けてくれた女に何かお礼をと思い、ただ一着、紅の絹の袴があったので、自分は男が脱ぎ捨てた白い袴をはき、女に紅の袴を与えようとした。女は受け取ろうとしなかったが「思いがけず美濃に行く事になったから、これを形見に」と無理に取らせた。
出立のときに、観音にお参りすると、その肩に赤いものがかかっている。見ると前夜にあの女に与えた袴である。さては女と思ったのは観音が変じて助けて下さったのだと気づき、娘は身もだえして泣いた。男も事の次第を聞いて涙を流し、従者達もその話に胸をうたれた。その後、二人は美濃で仲むつまじく暮らし、子供が多く生まれた。敦賀にもしばしば通って観音の世話をし、手を尽くしてその女を捜したが、ついぞ見つからなかった。
(「今昔物語集」巻第十六から要約)関西電力㈱わかさ探訪より)
松尾芭蕉の句碑(鐘塚)
「南北朝時代、足利軍との戦いに敗れた新田義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海士に探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、竜頭が海底の泥に埋まって引き上げることが出来なかった。」芭蕉は、宿の主人からこの話を聞いて「月いつこ鐘は沈るいみのそこ」と詠んだとのことです。現在この句は金前寺の境内に立つ句碑(鐘塚)に刻まれています。
- 住所
- 福井県敦賀市金ケ崎町1-4
- TEL
- 0770-22-1909
- 駐車場
- 普通車30台(無料)、バス5台(無料)
- 交通アクセス
-
マイカー利用の場合:北陸自動車道・敦賀ICより 車で約10分
バス利用の場合:JR敦賀駅より 「ぐるっと敦賀周遊バス」で約8分 「金崎宮」停留所下車
バス時刻・乗換案内はこちら
タクシー利用の場合:JR敦賀駅より タクシーで約9分 - ウェブサイト
- http://www.konzenji.jp